どうも、今日も日中からの更新です。
相変わらず地震のニュースが途切れることなく流され続け、死者も千人を超え、行方不明者もまだまだたくさんいます。マグニチュードも詳しい計算の結果、8.8から9.0まで上がりました。
また、「自分は生きているけど大切な人の安否がわからない」という状態も、かなり続いているようですね。
宮城・岩手・福島あたりが一番被害の大きいところらしいですが、避難場所が点在していて、しかも携帯も繋がらないし、電気も止まっているわけだから、情報がまったく手に入らない。
避難場所に自分の名前を書いて、壁に大きく張り出している映像もよく映しだされていました。
「大震災」……ということになっているそうですね。
朝のニュースでやってたんですが、例の原発の事故、僕が昨日書いた記事の内容以上に、とんでもないことになってるみたいですね。チェルノブイリやTMIも引き合いに出され、過去の原発事故と比べても、見劣りしないほどのとんでもない大事故になっているそうです。
福島のあたり、不謹慎ですが、当分人が住めなくなってしまうんじゃないでしょうか。今でもチェルノブイリのあたりは、人が近づけないらしいですからね。被爆者の方々も、少しずつ増えてきているそうです。
そもそも「被爆」という呼び方についても、朝のニュースで議論されてました。放射能を浴びるのが「被爆」ならば、極端に言ってしまえばレントゲンやX線写真、そもそも日光に当たることすらも「被爆」になってしまう、と言っていました。
日本人が「被爆」という言葉に敏感になるのは、広島・長崎の原爆があったからでしょう。
……放射性物質ってのは、僕は文系なのでちょっと化学の知識はないんですが、大量のエネルギーを生み出す新しくて画期的な手段なんでしょうが、それがこういう結果になってしまうとは、なんとも後味が悪いですね。科学を追い求めれば、人間は科学に呑み込まれる。智者は智に溺れる、なんて言葉もありますが、それを人類全体で体現しているような気もします。
で、この大震災で新しく感じたこと。
web拍手でもコメントをいただいたんですが、いちいちこんなのでダメージ食らっていたら、他の人を助けられません。いえ、この大震災でダメージを受けた方々を侮辱する意味はありません。ですが、僕は今和歌山の内陸部あたりに住んでいますが、和歌山が比較的安全だからといって、こんな事件で自分一人心痛めてそれに酔っているくらいなら、一人でも多くの人を助けるために、何かすべきだ、と思うようになりました。
ここ数日、「添削風の上から目線だ」という指摘を受けましたが、改めます。とにかく、自分が思っていること、感じたことを書く。相手を論破するとかそんな意思はすべて捨て、自分に何ができるかを考え、それを書いていく。
批判を受けることも、今後も何度もあるでしょう。
しかしここ数日の自分のブログの記事内容を見ていると、もう心底恥ずかしいです。
そもそも僕が東大に行きたいのは、「不純な動機」と言いましたが、もっともっと深く突き詰めると、「自分が書いた小説で人を楽しませたい、そのためにはたくさんのことを学ばなければならない、だからたくさん勉強ができるかもしれない東大へ行く」というものだったんです。
これはもう、「不純な動機」だとか「建前」だとか、そういうのでは一切ありません。
僕のこのブログのあり方も考え直しました。
そもそも僕は、このブログで何を伝えたいのか?
自分の意見を一方的に書いて、反論をことごとく潰していく、なんてそんな目的じゃなかったはずです。
「読んでいる人を楽しませたい」、これが僕がブログを書き始めて、書き続ける理由のはずです。
ブログですら人を楽しませることができないのならば、自分の書いた小説で人を楽しませることなど、絶対に無理です。
むしろこういう、人々の心が痛めつけられているときにこそ、もっと楽しませられるような記事を書くべきなのではないか?
そう思うようになりました。
……ついさっき、僕の好きな同人歌手さんのツイッターをチラッと見たんです。
その人は、本当にこんなときでも、「人々の心を癒したい」という気持ちで、充電済みのノートパソコンで録音し、アップロードしていました。
大した音響設備もないのに、「自分の力でなんとか人々に元気を!」という意思で、自分でできることを考えて、自分の歌を録音したのでしょう。
心打たれました。
……僕も、この記事書いている途中で、ツイッターにアカウント作りました。ブログにも貼りつけました。
ちょっと見にくいですが、一応それなりの形にはなっているかと思います。
今までツイッターのことを、「ログの残る失言発生器」なんて呼んでましたが、それは僕の心がけで、どうにでもなるはずです。
どうか、このツイッターでまた他の誰かに、元気を分け与えることができたらいいのですが。
急遽予定を変更して、まず昨日起こった「東北地方太平洋沖地震」について書こうと思います。
昨日の記事で、「騒ぎすぎ」と言われた、なんて笑い話みたいに書きましたが、地震のニュースを夕食の席で見ていると、「これはちょっと騒がなきゃならないレベルだろう」となりまして、昨日の記事で東北を襲った地震についての話題を軽々しく扱ったことを深くお詫び申し上げます。
国内観測史上最大のマグニチュードということで、ほとんどのニュースでこの地震の話題が取り上げられています。というか、どのチャンネルでもこの地震についてのニュースしかしていません。
マグニチュード8.8というのは、具体的にどれくらいの数値かというと、関東大震災(M7.9)と比べてやっと3倍、阪神淡路大震災(M7.3)に至っては千倍ほどの力で地震が起こったということです。定義に当てはめると、マグニチュードが1増えればエネルギーがだいたい30倍くらいになるんですが、実際の被害を考えると、この数値はあまりアテにならず、数値だけでは測りきれないものなんでしょう。
阪神大震災でもあれだけの被害が出たんですから、もう今回でどれくらいの被害が出るか、もう想像もつきません。
で、ニュースを聞いている内に、だんだん精神的にやられてきてしまいまして。
死亡者数とか行方不明者数とか、そういうのももちろんきつかったんですが、一番きつかったのが、津波の映像でした。
陸地にまで津波が押し寄せてきてて、車道を走ってる車たちが、なんとか逃げようとしてるんです。津波はかなりの勢いで、いろんなものを次々と飲み込みながら、飲み込んだものがぶつかり合って津波の中で火を出しながらでも、どんどん迫ってきてるんです。
そしてその内の一台が、とうとう津波から逃げ切れずに、飲み込まれてしまったんです。その映像を見て、かなりの精神的ダメージを食らいました。
たった今まで車が動いてたってことは、中に人が乗ってたってことなんです。
そしてそれが津波に飲み込まれたんです。
……ということは、中で運転していた方は……
「がんばれ、がんばって早く逃げて!」って祈りながら見てたんですが、ちょうど飲み込まれる直前に、車が一瞬動けなくなってしまったんです。そしてその一瞬で、津波はあっという間にその車を飲み込んでしまったんです。
……運転しいてた方の焦りと恐怖がありありと映し出されてて、それを見てると、もう心が張り裂けそうになるほど痛みました。
そして、「ああ、これが人が死んでいく瞬間か」と思ってしまったんです。
それで今かなり精神的ショックを受けてダウンしてます。
人が死んでいく瞬間なんて、できれば見たくなかった。
あの飲み込まれた車の中の方は、一体どうなったんでしょう。
その映像だけではありません。
同じく津波で車が何台も何台も飲み込まれて流されている映像。倒壊した建物や地面の映像。炎上している製油所の映像。
電車や交通機関が止まり、家に帰れなくなって、駅や避難所で過ごしている人たちの姿。
画面上部に途切れることなく流され続ける、津波の高さについてのテロップ。
「なくなってしまった」「地図から消滅してしまった」、集落の情報。
そして、淡々と読み上げられていく、亡くなった方々の情報。
……すでに何百人もの方が亡くなってて、行方不明者も数百人規模でいますが、この記事を書いている今この瞬間にも、命が失われていき、「命のともしび」も、僕の知らないところで消えつつあるんです。
津波の映像、これは多分、僕の記憶に一生残り続けると思います。いや、残し続けなければならない。
「人が死んでいく瞬間」とはどういうものか、記憶に残し、脳裏に焼き付け、心に刻んでおかなければならない。
「真実を知る」というのは、そういうことだ。真実ってのは残酷で、人間にはどうしようもないもの。そこから目を背けていても、人間は強くなれない。
……なんだろうなぁ、つい先日のニュージーランドでの大地震、あれを他人事と思ってた、自分が情けない。「明日は我が身」って、どうして考えられなかったんだろう。これは日本人全員に当てはまるはずだけど。
ニュージーランド地震で倒壊した、クライストチャーチの教会の映像がニュースで流れてたじゃないですか。あの赤っぽいレンガでできてた教会。
あの教会の前で、僕は4年前、写真撮ってあったんです。旅行に行ったときに。
あの場所であの教会をバックにもう一度写真を撮ることは、もう今後二度と、絶対にできないんです。
人間は、天災には絶対に逆らえないんです。そして天災で一度壊れたものは、そして天災に限らず、一度失われたものは、もう二度と元に戻すことはできないんです。もう二度と戻ってこないんです。
……残酷だけど、これがこの世界の真実なんです。
今回の地震、今までも日本では、近いところでは新潟中越地震、阪神大震災あたりがありますが、その二つと決定的に違うところがあります。
この二つは、どちらかというと地震による建物の倒壊や火事による被害が多かったかと思います。
ですが今回のこの地震では、「津波」による被害が尋常じゃないんです。
日本は世界の四つのプレートすべてに重なっている場所にあり、周りが海で囲まれてます。
その性質上、日本はいわゆる「地震大国」ですが、今まで起きた地震では、地震速報でも大抵が「この地震による津波の影響はありません」ってテロップが流れてたと思うんです。
だけど今回は違った。
今までの地震では、「倒壊」や「崩落」、「火事」による被害が主でしたが、今回は、「津波」による被害で、「壊滅」なんです。
ニュースで津波の映像が流され、死亡者数ももちろんそうですが、「行方不明者数」の方が気になりました。
「行方不明」、とりわけ「水難事故による行方不明」ってのは、もう本当に、何も希望が残らないんです。
「TSUNAMI」が世界共通語になってるのも、その辺りが理由なんじゃないでしょうか。
本当に「津波」は、何もかもを根こそぎ奪っていく。他の災害とはまた一線を画すレベルで、被害が尋常じゃないんです。人の命、財産、家屋、車、土地、その他もろもろ、すべてを飲み込んで潰していきます。
何もかもを根こそぎ奪い、そしてわずかに残る「希望の芽」すらも、すべて摘み取ってしまう。
今回の地震の被害は、津波だけじゃありません。
交通機関の停止で、家に帰れない人が大勢いる。「帰宅難民」というやつです。この寒い季節に、どう考えても全員分の毛布や食料は用意できない。ホテルやレストランもどこもいっぱいで、公共施設を都市部では開放していますが、それでもまだ全然足りない。
電力の供給も止まっているので、暖もとれないし、情報も満足に得られない。そもそもニュースの方から「情報提供をお願いします」って言ってるほど、被害状況が把握できていないんです。
東北地方なんか、もっとひどいです。
仙台空港、滑走路すべてが水に浸かるなんてこともありました。
小学校や中学校に逃げこみ、孤立してしまっている人も大勢います。
火災も多数起こっていますし、まだまだ余震が続いています。それもただの余震ではなく、震度5以上、6強弱のものばかりです。関東圏でも余震はまだ続いているようです。
昨日は雪も降っていました。この一夜、東北地方に限らず、家にいられない人たちは、どれほど寒い思いをしたんでしょう。
こうして朝が来て、天気もよかったのが、まだ救いでしょうか。朝の日差しを浴びて、少しは被災者の方々が安心できていたらいいのですが。
……数多くの被害の中でも、一番深刻に考えさせられたのが、新聞でもニュースでもやってましたが、原子力発電所のこと。
「炉心融解」って、こういうのを言うんですね。
冷却装置がストップし、非常用冷却装置も冷却途中で停止し、電力供給もままならないから、熱がどんどん溜まり、内部の空気が圧縮され、水が漏れ出し、放射能も漏れ出していく。
なんとか深夜に電源車が何十台も走って行って、冷却はある程度間に合ったそうですが、それでもまだ周囲10kmの範囲内には近づかないよう、避難勧告が出ているそうです。
……「原発反対」って言う人の気持ちが、よくわかりました。本当に、原発は怖い。「万全を期す」とか言いますが、今回のような「予測できないほどの事態」が起こったときどうなるか、までは想定していないようです。実際、今回の地震で被害を受けた原発でも、想定していた非常用冷却装置の持続時間と実際の冷却のスピードでは、まったくレベルが違っていたそうですからね。
隠語で、「黄色いパンケーキ」って呼ぶんでしたっけ? 実際にこういう被害のことを考えると……笑えませんよね。「核融合炉に飛び込んでみたいと思う」とか、不謹慎過ぎてもう冗談でも言えません。
……まだまだ被害は出るでしょうね。落ち着くのに、1ヶ月やそこらでは全然足りないと思います。先日のニュージーランド地震の復興の目処も、まだ立っていないんですから。
どうかみなさん、この地震の記憶を忘れないで下さい。風化させないで下さい。
そして、一刻も早くこの大地震で被害を受けた方々が救出され、一人でも多くの命が救われるよう、願い、祈っています。
また、この大地震で亡くなった方々の、ご冥福をお祈りいたします。
続きです。
……このペースだと、今日も近況報告は書ききれそうにないですね……
まぁそれよりこっちの方が大事なのでこっちを優先しますけどね。
次は、東大を目指すにあたって、どういう心構えが必要か、ということを書いていきます。つまり理念ですね。
僕が東大に対して、はたまた勉強に対して、そして人間というものに対して、どういう認識を持ってるかを書こうと思います。
まず目標は、「東大文Ⅲ」です。
なぜ文Ⅲかと言うと、まぁ文学部へ進むのに楽そうだから、って点でです。
文学部ならだいたいどこの大学でもあるじゃないか、と言われるでしょうが、僕は東大じゃないとダメなんです。
「やると決めたらとことんやる」ってのは僕の性格であり、たぶん今後の人生で変わることも、ほぼないかと思います。
どうせやるなら、てっぺんを目指す。妥協はしない。自分が満足いくまでやり続ける。
このへんは多分、もう僕の性格なんで、一生変わらないと思います。
これがたぶん、「僕らしさ」というやつなんだと思います。
友人に指摘されたんです。
「僕前と比べたら変わったでしょ?」って聞いたら、「いやー、まったく変わってないよー」って笑われました。
昨日の記事にも書きましたが、要はこの一ヶ月ほどで僕の何が変わったかというと、物事の捉え方だけなんですよね。
「物事を深く考えてしまう」っていうのが、僕の性格の、根本的な部分だと思うんです。
良く言えば深謀遠慮。悪く言うと、「深刻に考え過ぎ」ってことですね。
で、この5年間、僕はこの「物事を深く考えてしまう」っていう性格を、悪い方向に使い続けてたんですね。
深刻に考え過ぎて、頭がパンクしてしまった。自分の中で物事を悪く考えてばかりでは、自分の中に嫌な気持ちがどんどん蓄積されていくわけですから、心がぶっ壊れないはずがありません。
それで心が一旦折れてしまって、もう死にたい、と鬱まで患いました。引きこもりもしました。
正直もう、この5年間、後悔してもし切れません。
僕の考えでは、人間にとって一番重要な時期ってのは、「15歳~20歳の間」だと思うんですよね。
この5年間をどう過ごしたかで、ほぼ残りの人生を決めてしまいます。もっと言うと、高校生の間で決まります。極論を言ってしまえば、高校で勉強していい大学に入れるかどうかで、その後の人生が勝ち組か負け組か決まってしまう、ってことです。さらに正確に言うと、「リア充」か「非リア充」かが決まるわけです。
高校時代にイケメンで勉強できて運動できて部活で活躍して彼女いていい大学に進学して、とか言われたら、「勝ち組」と呼ぶのは少し古い呼び方ですが、どう考えても「リア充」でしょう。
リア充リア充言ってる人間は、つまりは僻んでるだけです。自分が非リアだからといって、リア充に嫉妬して僻んでネットで文句言ってるだけです。
僕もつい最近までは、そうでした。
もうね、高校生活なんて一生で一度しか経験できないのに、なんてもったいない過ごし方したんだろうなぁ、と後悔しまくりだったわけです。高校生活3年をほぼ全部棒に振ったわけですから。ブラバンも最後の文化祭でソロできなかったし、勉強も不登校やってたからロクにできなかったし、不登校だから友達少ないし、受験も失敗するし……
とまあ、つい最近まではこんなこと考えてたんですよ。非リアの考え方だったわけです。
が、最近になって、つまりこんな風に変化してからは、そんなのどうでもよくなりました。
高校生活を棒に振ったことを、後悔していないわけではありません。むしろ余計に後悔するようになってます。もったいないことしたなー、と今でも悔やんでますよ。
でも僕は、逆に考えれば、「普通の高校生」とはまったく違う経験をして高校3年間を過ごしたわけです。
高校3年間を普通に過ごした高校生と、高校3年間を不登校・引きこもりで過ごした高校生なら、後者の方が圧倒的に少ないわけです。
つまり僕は、「普通の高校生」とは違い、「引きこもりで高校3年間を過ごした高校生」の気持ちを、だいたい理解できるということです。不登校で引きこもって鬱になって、なんて高校生、あんまりいないでしょ?
だから僕はこの5年間を、悔やんではいますが、無駄な時間だったとは思っていません。
むしろ普通の人とは違う経験ができたんだから、ラッキーだったと思ってます。人生長いんですから、そんな貴重な経験ができたと思えば、5年なんて安いもんです。
これ自体、非リアの僻みにしか聞こえないでしょう。
ええ、僻みですよ。
ですが僻んで自分が何か変わるわけでもあるまいし。むしろ僻んでる間だけ、無駄に時間過ごしてるんです。人生長いと言いましたが、人生は短いです。そんな何の意味もないつまらないことに時間を費やすのは無駄だ、と言ってるんです。
今の僕は、「時間を無駄にする」というのが、すっごい嫌です。
僻むくらいなら、自分もリア充になるための努力をした方が、よっぽど建設的ですよ。
リア充リア充と言ってますが、「リア充」と呼ばれる人間は、「ただのDQN」「普通に生きてきた人間」「深みのある人間」の3種類くらいに分かれるんじゃないかと思ってます。
「ただのDQN」は、そのままの意味ですよ。何も考えずに生きてきて、まあそれなりに適当に楽しくやってるだけで、今後の人生についてはまったく考えていない、たまたま今成功してるだけの行き当たりばったりの人間のことです。要は「頭の悪い人間」です。一見楽しそうに生きてますが、いざ何かまずいことがあったときに、絶対に苦しみます。
「普通に生きてきた人間」というのが、僕が上で言ってる「リア充」の定義に一番近いですね。それなりに自分のことを考えて、自分の行きたい道に進んで、それなりの成果を出してる人間のことです。「普通」なので、常識に当てはまることであれば、だいたいは柔軟に対応できます。普通はこれで大丈夫です。
が、僕は「深みのある人間」の方がよりいいと思ってます。
「深みのある人間」ってのは、リア充の中でも少し特殊です。普通の人間がしたことのない経験をし、物事をよく考え、その上で自分なりの考えを持ち、そこから自分の行きたい道を選び、そこに進んでしっかり成果を出している人間のことです。
「普通に生きてきた人間」との違いは、「『自分』を持っているかどうか」です。自分しか経験していないことがあるので、普通の人間とはまったく別の考え方ができます。ただし、「普通ではない」という意味ではなく、「普通も知っている」という意味です。何か起こったとき、「普通」も知っているので、「普通に生きてきた人間」と同じように柔軟に対応できるばかりか、その人にしかできない対応の仕方もできるのです。つまり「頭のいい人間」です。こういう人が強い。
そしてそういう人間ほど、付き合っていて面白い相手だと思ってます。僕がしていない経験、しかも「普通ではない経験」をしているわけですから、非常に興味をそそられますし、人間的にもできた人が多いと思ってます。
さて、東大の話に戻りましょう。
このリア充非リア充の違いを当てはめると、基本的に東大生はリア充です。
「深みのある人間」の説明で、「頭のいい人間」と言いましたが、それは単に勉強ができるか否かという点ではなく、「上手く生きていけるか」「世渡り上手か」ってことです。人間関係を円滑に進められ、物事に臨機応変に対応できる人が「頭のいい人間」なのです。
「東大生の中にも馬鹿はいる」なんて言う言葉もありますが、それは僻みでもあり、事実でもあります。
が、日本の中では、東大生の方が少なくとも勉強して努力はできる、と判断することはできます。
そういう人間が集まる場所なら、「深みのある人間」の数も、少なくはないのではないでしょうか。
僕は人との出会いをすごく大事にしたいし、どうせ付き合うなら付き合ってて面白い相手がいいです。自分がしたことのない経験をしているわけですから、きっと僕とは違う考え方の持ち主でしょう。自分と違う考え方の人を意見を聞くって、すっごく興味深いですからね。
で、東大はそういう学生を求めています。「自分なりの考え」を持っているかを重視し、そういう人間ほど、将来今までにない発想や研究結果を作り出せると思っているわけです。
僕はどう考えても「普通に生きてきた人間」ではないので、今後、リア充の中でも、「深みのある人間」になれる可能性が、多々あるわけです。「ただのDQN」かどうかは、常識を知ってるかどうかの違いです。
「非常識な人間」という言葉を聞いて、どんなイメージを持ちますか?
「非道徳的な人間」とか、「秩序を乱す人間」とか、そういうイメージではないでしょうか?
「非常識」と「常識を知らない」では、同じようで違います。
常識の中に「非常識」があるんです。つまり「非常識な人間」というのは、「常識を知っていて、敢えて常識とは違う生き方をしている人間」のことなんです。
そしてそういう人間がダメかというと、そんなことはありません。
人類の発展は、大抵そういう「非常識な人間」が考え出した発想をもとにして生まれたものによってなのです。上に書いた、「将来今までにない発想や研究結果を作り出せる」というのは、そういうことです。
勉強なんか別にどこの大学でも、別に大学に行かなくてもできます。
でも勉強ができる環境が整っており、自分に合った大学となれば、もう僕は東大を選ぶしかないでしょう。
これが、僕が東大にこだわる理由です。
が、これは建前です。本音を言うと、「東大生カッケー」とか「優越感に浸れる」とか「東大なら実質三浪でも許される」とか、すっごい不純な動機です。僕が予備校行こうとしない理由も、不純でしたよね。あれと一緒です。
文学部狙いなのは、単に自分が小説とか歴史とかそういう文学が好きだからですよ。将来は文章で食っていきたいと思ってますし、そういう勉強ができるかも、っていう安直な理由です。今の大学は、文学よりも「書くこと」を学ぶ場所だったんで、辞めるんです。
で、東大に入れれば、普通にリア充として世間から見てもらえるので、東大狙って勉強するわけです。ついでに「再受験して一年で東大合格」っていうオプションも付きますし。
東大はそんな甘い考えで入れるような場所ではないんでしょう。だからこうして、甘い勉強の仕方をしないように、具体案を書いてるわけです。
東大がそんなに甘くないことくらい知ってます。でも動機なんて不純でいいんです。清廉潔白な感情で生きてる人なんて、そうはいないでしょう。そしてそういう人間ほど、つまらない人間だったりするんです。
いろんな経験をしたい。いろんな人と会いたい。いろんなことを学びたい。
そういう動機の裏に、こういう「不純な動機」、つまりほんのちょっとの悪ふざけがあった方が、人間として面白いわけです。そういう人間は、人を楽しませることができるし、自分も楽しめる。
僕もそんな人間になりたいわけです。
昔みたいなお堅い人間でいるよりは、今みたいにいい加減で適当に生きてる方が、よっぽど楽しいですよ。
これが、「物事を深く考えてしまう」っていう性格を、「良い方向に使ってる」ってことです。
嫌なことを考え続けているよりは、いかにして楽しく笑って生きていけるか考え続けていた方が、楽しいし精神的にもいいに決まってます。
そんな風に吹っ切れました。
根っこの部分は変わってないけど、性格は変えられないけど、考え方なら変えられる。変えて良い方向に進めるなら、変えた方がいいに決まってます。「いやー、まったく変わってないよー」ってのは、そういうことです。考え方を変えただけです。
ちょうどいい長さになったので、ここで具体案2、「なぜ東大なのか」についても、一旦切ります。
具体的な勉強方針については相変わらず示せていないという。
次の記事からは書きますんで。
あとこの記事を書いてる間に東北で大地震があったそうで。
焦ってブラバンの友人に連絡取りまくってたんですが、「ちょっと騒ぎすぎ」って言われました。
東北の方、大丈夫でしょうか?
【追記】2011/03/11/19:34
すみません、次の記事を書こうとしてたのですが、7時半を目安にしてパソコンは片付ける、と決めたので、次の記事はまた明日の朝になります。
ブログの更新が携帯のフルブラウザではなくパソコンで、しかも朝になった理由も、ここで言っておきます。
携帯のフルブラウザだと、単純に容量が10000byteまでしか書けないからです。
それに全角スペースも使えませんし、書きにくいし、変換能力もイマイチです。
何より、携帯でポチポチやるのが面倒だからです。
パソコンなら使い慣れてるので、書きやすいし、容量も余裕があり、変換も大丈夫です。
んで朝にするようになったのは。
今後、ブログを更新すると決めた場合、その日の夜に書き始めるのではなく、次の日の朝にします。
夜に書き始めると、ブログってのは考えながら書いていくので、夜寝る時間が遅くなります。
なので、記事にする内容を前日の夜にあらかじめメモしておきます。そして次の日朝起きてからそのメモを見ながら記事にすれば、「考えながら書く」という手間と時間が省けます。次の日の朝に更新すれば夜更かしなんてありえないし、きちんとやめるタイミングを決められれば、すぐに勉強に移れます。
ただ、朝起きてすぐは頭が数学の勉強に向いているので、朝起きてすぐ、というのはあまりしたくありません。今はこうして朝起きてからずっと記事書いてますが、本格的に勉強を始めると、更新は朝ではなく昼過ぎあたりになると思います。
今こうして朝から記事にしているのは、それこそ「本格的に勉強を始めるため」です。
あらかじめ具体案をこうして文章にしておけば、勉強の効率もグッとよくなります。
最初だけです、こうして朝から記事書くのは。
あらかじめ万全の準備をしておいてから勉強を始める、というスタンスでやります。
では、また明日具体的な勉強方針と科目別の勉強法を書いていきます。
近況報告もだいぶ後になりそうですね……まぁ、もう少しお待ちください。
近況報告の内容よりも、今後の具体案の方が先に完成してしまったので、先にこっちを記事にすることにします。
これを読んでいただいて、僕なりにどんな風に東大再受験を考えているかを、少しでも理解していただければいいのですが。
ですが、その前に。
大事なことを言っておかなければなりません。
これは僕にとって大事なことですし、絶対に忘れちゃいけないことです。
でもこれも、読んでくださっている皆さんにも心がけてもらいたいと思っています。
今朝、とある夢を見ました。
どう考えても「ドリームキャッチャー」の力です。
いつだって、僕に大事なことを考えさせてくれる「きっかけ」を、夢という形で与えてくれます。
この夢を見なければ、きっと絶対に失敗していたと思います。
どういう夢だったかと言いますと。
「自分を信じて突き進み続けていて、いざ何かにぶち当たったとき、本当にどうにもこうにも、にっちもさっちも行かない、八方塞がりの状態になって、とうとう精神的にやられてしまって死んでしまう」、という内容のものでした。
……どう考えても、昨日僕が書いた記事を元に、「そこで少し考えなきゃいけないよ」と思わせるようにしているとしか思えません。
昨日僕は、「背水の陣」の話をしましたよね。で、「逃げ道を用意しておくのはネガティブな発想」で、「受験においては無理にでもポジティブにならなければならない」、といった内容のことも書きました。
で、この夢を見て、心にグサリときたもの。
「ポジティブに、楽観的に考える」「『背水の陣』を敷く」「成功を信じる」ということは、一見何もかもうまくいきそうな物言いですが、その裏には「向こう見ず」「命知らず」「成功しか信じようとしていない」という意味も含まれている、ということです。
「背水の陣」の本質の話をしましたが、もっと本質を考えてみると、「そもそも『背水の陣』なんて敷かなくてもいいようにすべき」というものです。
昨日のあの記事を書いた時点では、僕はわざと「背水の陣」を敷いて成功させようとしていました。が、もっとよく考えれば、「背水の陣」なんて敷かない方がいいに決まってます。
このことに気づいて、僕は再び「命の危険」を感じました。
昨日の記事で「『背水の陣』は相手に何の策もないことがわかっていなければ敷いてはならない、逆に何も考えず『背水の陣』を敷いた者は大抵負ける」、ということを書きました。
僕は、何も考えずに「背水の陣」を敷こうとしていた、ということです。
もう、目が覚めたときめちゃめちゃ怖かったですよ。体が震えてましたもん。
これを夢で見せてくれたドリームキャッチャーに、本当に感謝しなければなりません。
そして、「夢でよかった」。
いやはや、なんというかもう、ドリームキャッチャー様様ですね。
「失敗したときのことは考えない」なんて言ってましたが、「失敗したときはどうなるか」という「if」を、想像ではなく、寝ている間の「夢」として、実感させてくれたんですから。
ホントに、「夢でよかった」。
やっぱり、頭の中での想像と、「夢の中で実際に体験する」では、全然違いました。だから、目が覚めたときめちゃめちゃ怖かったし、体が震えてたんです。
で、起きてからしばらくは、「背水の陣」をやめようか、つまり大学辞めて再受験なんかやっぱりやめようか、とすら考え始めていました。「命あっての物種だ」、ということで。
だけどもう、後には引けないんです。前に進むか、ここでリタイアして死ぬか、どちらかしかもう残されてないわけです。
死ぬのは絶対嫌です。「命あっての物種」です。
以前死にたい死にたいばかり言ってた僕が言うのもおかしいですが、今の僕は、死ぬのがめちゃめちゃ怖いです。命をめちゃめちゃ大事にしてます。
だけど死ぬのが嫌ならば、前に進むしかない。リタイアで死ぬよりは、前に進んだ方が、まだまだ生きられる可能性があるわけですから。
でも何度も言ってますが、この「再受験して一年で東大合格」という計画を成功させるためには、ハンパな覚悟ではできないわけです。それこそ、「命をかける」くらいできなければ。
「人生賭けた大バクチ」ですからね。リスクはもとより承知、ですがハイリスクハイリターンです。
「費用対効果」、「コストパフォーマンス」の話はしたかと思います。
そして、「東大合格」というのは、どれだけの費用をかけても、それ以上に効果が返ってくるものだと思っています。それについての説明も、また次の記事でします。
が、費用をかけるにしても、その費用をできる限り少なくすることは、可能です。「東大合格」というのは、効果の大きさは、かけた費用の量に必ずしも比例するわけではありません。
むしろ、いかにして費用を減らして合格できるか、というのを考えられる人間を、東大は求めています。
つまり、「時間を長々とかけてじっくりと実力をつけて確実に合格」する人間よりは、「短時間で密度の高い勉強をして楽に実力をつけて合格」した人間の方が、より求められている、ということです。
今年の入試は終わってしまいました。
次の入試を受けるには、また一年待つしかないんです。
そして前述の通り、一年で合格した人間の方が、二年かけて合格した人間よりも優秀だ、と東大では思われています。
ならば一年で合格する方がいいに決まってます。
しかし何度も言う通り、「再受験して一年で東大合格」なんていう計画は、並大抵の覚悟では成功させられません。
なので、「命をかけて」勉強するわけです。
当然ですが、実際に命をすり減らすような真似は、絶対しません。僕はきちんと命がいかに大事が、きちんと理解していますからね。
「たった一年」です。これは後ろ向きなニュアンスの言葉ではなく、前向きなニュアンスで言ってます。
僕が80まで生きるとして、今二十歳だから、残りの人生は60年。
その内の「たった一年」、命をかけるだけで、残りの59年がバラ色になるわけです。
「たった一年」くらいなら、命をかけて勉強するのも決して無茶ではありません。
東大には、突飛な作戦は通じません。あくまで「学問の王道」を行く必要があるわけです。
しかし、ただ「学問の王道」を行くだけでは、とてもじゃないけど一年では合格できません。
なので敢えて、「突飛な作戦」『も』使うわけです。「学問の王道」を行きつつ、敢えて「突飛な作戦」も踏まえます。
その「突飛な作戦」というのが、「背水の陣」というわけです。
正直、「背水の陣」を敷くのはとても怖いです。でも、この記事を書いている間に、『孫子』の解説書を読んで、「背水の陣」の正当性について理解し、自分に言い聞かせ、自分なりに納得しました。きちんと解説書にも、「背水の陣」について書かれていました。
なので、怖いですが、「背水の陣」を敢えて敷きます。僕の大好きな、「理論」で裏付けされている方法だからです。この「理論」が自分の中できちんと定まっていなかったから、ドリームキャッチャーは「夢」で「背水の陣」の危険と本質を教えてくれたのでしょう。そして理論で裏付けされているということを、僕に調べさせて、安心させようとしてくれたのでしょう。
ドリームキャッチャー、やたらと強調していますが、実際にかなり重宝しています。
親父はそこまで考えて買ってくれていたのかはわかりませんが、僕はこの「ドリームキャッチャー」に、絶大な信頼を置いています。
いつも、僕が突っ走りかけたときに、「ちょっと待て」と「考えるきっかけ」を与えてくれるからです。前回話題に出した2月24日にも、「再受験」のことをしっかりと考え直すきっかけを与えてくれましたしね。
将来僕が有名になったとき、僕は絶対にこの「ドリームキャッチャー」の話をしようと思っています。
それほど、僕にとって「ドリームキャッチャー」というのは、人生を変えるきっかけになったわけですから。
さて、では具体案の内、「背水の陣」については一旦この記事で終わります。
続きをまた書きますので、しばらくお待ちください。
コメントをいただいて、それに対する自分の反論を書いてる内にとんでもない長さになったので、ひとつの新しい記事にします。
私信という形になりますが、これはぜひみなさんにも読んでいただきたいと思います。
anonymous様、このような場を作っていただいて、ありがとうございます。
>anonymous様
納得いたしました。あれほどの暴言、大変失礼しました。撤回して謝罪いたします。申し訳ございませんでした。
あなたを「物事を論理的に考えられる人間」とは思えない、という発言も撤回します。少なくともあのコメントひとつでは読み取れなかったので、あのような言い草になってしまいました。お詫びいたします。
また、あなたの論も、僕は支持します。少なくとも、突っぱねるなんてことは今後は決していたしません。この記事で誓わせていただきます。
先に矛盾点を指摘させていただきます。と言っても、僕の今までの記事をしっかり読んでくださっていた、ということが判明いたしましたので、ほとんどなくなりましたが。
現役生なのに浪人の、宅浪の苦労をあたかも知っているかのように話している点(ただの一般論であり、具体性に欠け、つまり説得力がない)、が一番大きな矛盾点、というか疑問点でしょうね。
説得力と具体性、論理性についての記事だったのに、そんな内容の記事にあんな内容のコメントを載せた、というのが少し残念でした。
しかし、それは僕の実力不足でもあるのでしょう。自分の言いたいことをうまく相手に伝える技術がなかった、という点で。もしくは、これ以上ないほどの、飛び切りの皮肉だったのでしょうか?(笑)
また、「負け犬の遠吠え云々」も、できれば付け加えない方がよかったのでは、蛇足だったのでは、と蛇足ですが指摘させていただきます。相手に付け込まれないよう保険を入れることは、逆にムキになって強がっているようにしか見えず、かえってそこに付け入る隙を与えてしまいます。あの文のせいで、僕もあれだけムキになってしまいましたがね(笑)
どれほど前からこのブログを見てくださっているのかはわかりませんが、以前の記事を見れば、たしかに、僕自身の精神力が弱かった、ということは認めざるを得ません。
ただしそれは、所詮「過去の話」です。「過去は過去、今は今」です。適当そうな言葉にしか見えませんが、本質を見抜いた言葉だと思いますよ。
要は、過去に何があろうと、今の自分は過去の自分とは違う、ということです。
さらに言わせていただくと、この世で本当にダメな人間というのは、過去の経験や失敗から何も学べない人間のことです。
僕はこの五年を鬱だとか言って引きこもって過ごしていましたが、本当に精神力が弱ければ、今こうして再び立ち上がろうとすることすらできていないはずです。
僕はこの五年間をこの上なく恥じています。恥じるということはつまり、自分の失敗や間違いに気づき、改めようとしているということです。それは、精神論になりますが、その精神論さえも踏まえて、より「決して精神力は弱くはない」ということの裏付けには、ならないでしょうか?
また、もう一歩踏み込んで考えると、「この五年間も、今の僕を作るのに必要なことだった」と思うこともできます。そう思うことができれば、もっと前向きに物事が捉えられるようになり、さらにより一層精神力を鍛えられ、鬱の治療にも繋がる、と僕は解釈しています。
この一ヶ月で僕が劇的に変化したのは、「物事を深く考える」という僕自身の根本的な性格でありアイデンティティであるものを、悪い方向に悪い方向に、と使ってしまっていたのを、良い方向に良い方向に、と使えるようになった点だと思っています。
ネガティブよりは、ポジティブな方がいい。
ただし、ネガティブかポジティブかは、個人の性格の問題なのでどうしようもありません。しかし受験においては、ネガティブでいるのとポジティブにいるのでは、精神的なプレッシャーが全く違います。「あと一年しかない」と「まだ一年もある」では、無理にでも「まだ一年もある」と思うべきなのです。
そして僕が頑なに「予備校には行かない」、と主張しているのは、このふたつ下の記事の通り、予備校に行くことは「逃げ道を用意すること」であり、それはネガティブな行動に感じる、だから嫌だ、という理由があるからなのです。
「宅浪では成功しない」というのは、たしかに家で勉強していると、周りに雑念があるから集中力と精神力が続かない、そして人との接触がないのでストレスが余計に精神的にダメにしてしまう、という見解がほとんどでしょう。僕もそう思います。
ですが、それはネガティブな発想だと思っています。逆に一人孤独に勉強するからこそ、熱意十分気合充分になれる、とポジティブに解釈すれば、宅浪だって成功しない理由ではなく、成功できる理由にできます。
僕自身も、そしてあなただけではなく、僕の宅浪を心配してくださっている方全員が懸念していることは、おそらく上にも書いた通り、宅浪による「ストレス」と「モチベーション維持の難しさ」でしょう。
しかし、ストレスというのは、実は他人から与えられるものではなく、自分で自分に勝手に与えてしまうものなんです。他人にストレスを与えられた、というのは、勝手に自分で他人の行動をストレスに感じてしまっているだけなんです。
僕の場合は、一人で勉強することよりも、自由もなく予備校でカリキュラム通りの勉強をさせられている方が、よっぽどストレスなんです(笑)
自宅には雑念が多い、とありますが、雑念があったっていいじゃないですか。むしろ、雑念に耐えて無理に勉強している方が、自分で自分にストレスを与えてしまっています。勉強できる環境は、むしろ自由であるべきなんです。
だから僕は、疲れたときには無理せず普通にベッドで横になるし、気分転換をしたいときには、我慢せずやりたいことをやります。それがストレス発散になるんです。自分の気持ちを殺して勉強し続けるよりは、自分の気持ちのままに動いた方がストレスを感じなくて済むんです。
ですがその線引きが僕一人ではどうしてもできないので、こうして近況報告という形で、あなたを含めた読者の方々すべてに監視してもらっているのです。
自由であるべきだ、とは言いましたが、自由でありすぎてもダメなんです。誰かに監視されなければなりません。
そしてその「誰か」というのは、「顔が分かっている数人」よりも、「顔のわからない不特定多数」の方が、より効果があります。誰が見ているか、誰が監視しているかわからないからこそ、迂闊なことはできない、自分を引き締められる、というわけです。
さらにこの近況報告は、モチベーションの維持にも繋がります。僕のブログのあり方を以前書きましたが、あれは変わっていません。あなたのように「読んでくれている人がいる」、「更新を楽しみにしてくれている人がいる」と思うことで、僕はより一層がんばることができるんです。
僕のこの一年間は、ただの宅浪ではありません。パソコンのモニターを通じて、画面の向こうにいる読者のみなさんと一緒に、勉強しているんです。
顔はわからないし、どれだけいるかもわからない。でも僕は一人じゃない、と信じていますよ。そして、これを読んでくださっている方々が、僕を支えてくれているとも信じています。
支えてくれている方々がいると信じられるからこそ、その支えてくれる方々に、いい結果を報告したい。そういう心づもりでこの「再受験して一年で東大合格」というとんでもない目標を見てみれば、よく見れば実は別に大して高い目標ではなく、案外簡単に成功させられるようなものに見えるはずです。
自分の可能性を否定するのが、何事においても成功できるものを失敗させてしまう原因になるんです。
何かを成し遂げたいのならば、まずは自分で自分の可能性を、信じてあげなければなりません。自分を信じてあげなければ、一体誰が自分を信じてくれるんです?
「信じる」なんて青臭いこと言ってるなぁ、って思うでしょうが、僕は「信じる」ってすごく大事だと思ってますよ。信じれば信じるほど、物事は信じた方に転がりやすくなるものなんですから。
期せずして、僕の受験のスタンスを記事にする結果になってしまいました。
ですが良いことだと思ってます。いずれ言わなければならないことを、早く言うことになったんですから。
「不特定多数に監視してもらいながら宅浪」って、なんだか新しい勉強方法みたいですね。これで結果を残せたら、万々歳なんですが。
しかし相変わらず勉強の具体的なプランは提示できていませんね……
では明日、また更新しようかと思います。
パソコンの使用制限をかけてるので、これを更新したら、すぐ切ります。その後、紙に書いておきますね。