こっそり新作をUP。
授業もすべて終わった放課後、夕暮れの中。
俺は今日も先輩のところへ行く。
先輩は最近は生物教室にいることが多い。
「先輩、いますか?」
生物教室のドアを開けると少し生臭い空気が漏れてくるのだが、もう慣れた。
返事はなかったが、教室の中に入ると先輩はたしかにそこにいた。
窓を開けて、窓の外を見ていた。
「先輩?」
声をかけると俺に気づいたようで、こちらに振り向いた。
「ああ、君か。すまない、少し考え事をしていてね」
先輩はせっかく整った顔を少し申し訳なさそうな表情に変えた。
「しかし、君はいつもここに来るね。特に面白いものはないはずだが」
「そんなことないですよ。先輩がいつもここにいるから、俺もここに来るんです。先輩の話って、聞いてると面白いですし」
――先輩と出会ったのは、本当に偶然だった。
ある日放課後の学校をうろついていると、空き教室に一人ぽつんといる先輩を見つけて、本当に、何の気なしに教室に入っていって声をかけたのが出会いだった。
先輩は綺麗だし、スタイルもいいし、成績もすごくいいらしいけど、何故だか放課後は一人で人気のない教室でいることが多い。
どうしてなのか聞きたくもあるけど、なんとなく、聞いちゃいけないことのような気がして、聞かないようにしている。
先輩は「こんなところに来るなんて珍しいな」なんて言っていた。でも、なんとなくだけど、先輩は誰かを待っているように見えた。その誰かってのは――うまく言えないけど、特定の人物じゃなくて、誰か話をする相手だと思う。放課後の人気のない教室で一人いたのは、そんな理由なんじゃないかと思っている。
先輩は頭がいい。それは成績って意味でもそうだけど、なんだか十七歳らしくない考え方を持っているような気がする。だからもしかしたら、ちょっとだけ孤立しているのかもしれない。
俺は頭はよくないけど、先輩の話は聞いていて面白い。だから先輩の話が聞きたくて、こうして先輩に会いに来ている。
先輩を見ると、また窓の外に視線を戻していた。
「ふむ、そうか……こういうのが日常というのかもしれないな」
「日常?」
「ああ、そうだ。日常だ。少し、日常について考えていた。……今、君はこの日常に満足しているかい?」
そんなの答えるまでもない。
「満足してますよ。毎日楽しいですしね」
すると先輩は急に俺の目をすっと見据えて言った。
「そうか。しかし考えてみて欲しい。今私と君が毎日こうして会っているのは私と君の日常だが、もっと別の誰か……例えばアフリカの飢餓で苦しんでいる同年代の少年少女からしてみれば、日常ではなく非日常だ」
「……まあ、そうかもしれませんけど」
「そしてそれを当たり前だと思っていないかい? だとしたらそれは傲慢だ。無意識に自分が恵まれていることを当たり前と考えて、その日常にあぐらをかいている。そんな無意識の傲慢というやつだ。もっとも、私も、他の人間にも言えることだが」
先輩の目は今度は生物教室で飼われているモルモットのケージに向かった。
「ここのモルモットもそうだ。このモルモットは、狭いケージの中で暮らすのが日常だ。その日常に満足しているかまではわからない。だが、世の中ではモルモットというだけで実験動物だ。そしてこのモルモットはその現実を知らない。これも無意識の傲慢だ」
また先輩の目は俺の目に合わさった。
「君は、そんな世界の理不尽を理解しているかい?」
先輩は綺麗な目をしている。でも、今だけはそのまっすぐな視線から逃れることはできないような気がした。
そうだ。この世は理不尽なことなんて山ほどある。俺たちは今毎日のうのうと生きているけど、世界には明日の命さえ危うい人間が、世の中の理不尽と同じくらいたくさんいるんだ。俺たちが毎日当たり前だと思っている日常は、別の誰かからしてみれば日常じゃなく非日常なんだ。それに――
「ふふっ」
俺が真剣に考えていると、先輩が笑った。
「な、何がおかしいんですか」
「いや、君の真面目そうな顔が少し面白くてな。そう険しい顔をしなくてもいい。あくまでこれは例えだ。一例に過ぎない。……こう思うことも、一種の傲慢なのかもしれないが」
そう言うと先輩は、また窓の外に視線を戻してしまった。
夕日が放課後の生物教室を紅く染める。先輩のセミロングの髪が、わずかに入ってきた風でなびく。
……綺麗だ。
でも、なんだか違う。こちらからは見えないけど、先輩の目は、窓の外じゃなくて、どこか遠く、ここではないどこかを見ているように思えた。
しばらく沈黙が続いたあと、先輩が口を開いた。
「君は、パラレルワールドって信じるかい?」
「パラレルワールド?」
「そう、パラレルワールドだ。この世界とは違う、別の歴史を辿った世界さ」
パラレルワールドか……言葉は聞いたことはあるけれど……
「例えば、君と私が出会わなかったパラレルワールドを考えてごらん。一体どんな世界だと思う?」
……どんな世界だろう。俺と先輩が出会わなかった世界……
まず、こうして毎日足繁く先輩のところに通ってはいないはずだ。先輩と会わないから、先輩の面白い話も聞けない。さっきの無意識の傲慢なんて話も聞くこともなく、毎日バカみたいな日常を過ごしていたはずだ。
「少なくとも、今よりもっとバカだったと思います」
「だろうな」
「……ひどいですよ先輩」
「ふふ、冗談だよ」
「……じゃあ、先輩は、もしそんなパラレルワールドだったら、どんな日常だったと思いますか?」
「ん? 私かい?」
先輩は少しだけ黙った。きっと、俺と出会わなかった世界を考えているんだろう。もしかしたら、もっと別の可能性の世界も。
「そうだな、きっと私も……君と出会わなかった世界では、ずっと一人きりで何かを考えていただけかもしれない」
そこで先輩は一旦区切った。
「だから、君が初めて声をかけてくれた日のことはきちんと覚えているし、本当に感謝しているんだ」
なんとなく……本当になんとなくだけど、いつもとは違った優しさのような表情をして言った。
でも……
「でも、パラレルワールドなんて考えるなんて、なんか後ろ向きじゃないですか?」
「……後ろ向き?」
「そうですよ。だって、パラレルワールドなんて考えるってことは、今の世界に満足してないってことじゃないですか? 今のこの世界に不満があるんですか? そんなの、悲しいじゃないですか」
俺が言うと、先輩は少し面食らったような顔をした。そして微笑む。
「すまない、これはどうも性分だな。……ふむ、なるほどたしかに、今の世界に不満があるから、別の歴史を辿った、ありもしない世界を望む、か……ふふ、たしかにこれは後ろ向きだな」
「今この世界で出会った先輩は、本物の先輩です。俺はこの世界で先輩に出会えて、こんな楽しい日常を過ごせて、良かったと思ってますよ」
先輩は俺の顔を少しだけ見た後、また窓の外に視線を戻してしまった。
……教室は、夕日で紅く染まっている。
最後に、後輩からは見えない一文が隠されてます。
……先輩の頬も、紅く染まっている。
って。